椎名林檎が好きすぎるので、僕が感じる魅力を語ってみた

椎名林檎が好きすぎるので、僕が感じる魅力を語ってみた

僕の人生の中で、労働や睡眠のほかに、大きなウェイトを占めているものがある。それは椎名林檎だ。耳が空いていれば椎名林檎や東京事変の音楽を聞いている。もはや椎名林檎が創作する音の海に溺れていると言ってもよいかもしれない。

あまりに椎名林檎が好きすぎて、もうどうにかなってしまいそうなほどだ。残念ながら僕の周囲には好きを共有できる人もいないので、当ブログにて僕が感じている椎名林檎の魅力について語っていきたい。

ただ僕は専門的に音楽の勉強などしたことがなく、音楽に対して造詣が深いわけではない(どちらかというと”うとい”方かもしれない)。そのため椎名林檎の音楽性に対して、テクニカルな面で感想を述べることはできない。これから綴っていくことも、ただの一般的なファンの思いでしかない。(中にはそれは違うだろ! とお叱りを受けるようなこともあるかもしれないが、個人の感想なので、そこはいちファンの戯れ言だと思ってご容赦されたし)

どれだけ聞いても飽きない

世の中には不思議なことがあるものだ。コンテンツは消化するものであり、一度消化してしまえば再度同じコンテンツに時間を消費しようとは思わない。

だが僕にとって椎名林檎の創作物は違う。どれだけ同じ音楽を聴こうとも、どれだけ過去のコンサート実演をDVDで見ようとも、一向に飽きない。まわりの人からも「毎日椎名林檎ばかり聞いてて飽きないの?」と言われるが、嘘偽りなく飽きないのだ。

陳腐な言い方をすれば、いくら噛んでも味のなくならないガムのようなものだし、さらにすごいのは噛むごとにその味を変えて違ったおいしさを感じさせてくれる。

なんというか音楽や歌詞など椎名林檎が創作するものは、僕の中で理解できる範疇を超えているのだ。だからどれだけ自分の時間を消費しても、消化しきれないのである。そもそもその才能に直面したことでファンになったわけだし、すぐに理解して消化できてしまうコンテンツであれば、僕自身もここまで好きになることはなかっただろう。月並みな表現をすれば「奥が深い」とでも言うのだろうか。

そんな底をつかせない音楽を生み出してくれる林檎さんは、素直に天才だと思う。ロックっぽい音楽や、ジャズっぽい音楽、歌謡曲っぽい音楽など、そのバリエーションもさまざまで、どの曲を聴いてもとても素晴らしい(音楽に造詣が深くないゆえ、低語彙力での表現で申し訳ない)。椎名林檎の好きな楽曲については、また別の機会に書いていきたい。

※楽曲については、アルバム収録曲・カップリング曲に限定した名曲について書いてみました
椎名林檎のアルバム収録曲・カップリング曲からおすすめ曲をご紹介

歌詞は全てを理解できないけど・・

音楽には、曲だけではなく詩の存在も大事になる。

だが・・・ はっきり言って椎名林檎が綴る詩は、とても難解で理解できないものが多い。恐らく一般の方でも理解できる範疇を超えており「そーゆーのあるある!」といったJ-POPによくある共感もほぼ生まれないのでは。いったいどういう思考をすればあのような詩を綴れるのだろうか。

ただ椎名林檎の歌詞には言葉の選びや表現の方法など、一種の美しさを感じとることができる。歌詞というよりも純文学のような捉え方をした方が良いのかもしれない。椎名林檎の好きな歌詞については、また別の機会に話したいと思う。

※歌詞について、その奥ゆかしさと表現の美しさについて書いてみました
椎名林檎の歌詞から表現豊かでぐっとくるフレーズを抜粋してみる

音楽を通して伝えたいメッセージ性

歌詞の全てを理解することはできなくても、曲を通して伝えたいだろうメッセージのようなものを感じ取ることはできる。

椎名林檎の歌を聴いて感じるのは、過去を嘆くこともなければ、未来に期待を託すこともない。大切なのは”今”であり、今この瞬間を自分が楽しめるかどうか、自分が満足できるかどうかに価値があることを説いているような気がする。

他人の評価や世の中の価値観など関係なく、自分の感性や考え、今を生きる自分自身を肯定してよいのだと、前向きな気持ちになる人も多いのではないだろうか。

ジェンダーな部分は理解できないが

椎名林檎が楽曲に込めるメッセージとして、もう一つ中核をなすものが、女性や母親といったジェンダーな部分だ。「ありきたりな女」「カーネーション」「女の子は誰でも」などは分かりやすく女性という性の表現がされている。

残念ながら僕は男なので、こうしたジェンダーな部分はどれだけ理解しようともできない。それは悔しくもあるが、ときたま女性ならではの喜びや価値観などに思いを巡らしては感極まるときもある(結局は分かった気になっているだけだろうし、男特有の勝手な解釈で悦に入っているだけ、なんて言われそうではあるが・・)。

完成度の高いライブコンサート

椎名林檎もほかのアーティスト同様、定期的にライブコンサートを行う。アリーナレベルやホールレベルなど、会場の大きさは様々であるが、その完成度はとても高い。

もはや音楽コンサートの域を超え、質の高い舞台劇を鑑賞しているような感覚になる。ライブという「生」の時間を共有できるからこそ、その場限りのアドリブをきかせて楽しませるのも良いと思うが、椎名林檎のライブは常にシナリオが用意されていて、それを椎名林檎が主演として演じているのだ。

そして質の高いライブコンサートとするためには、林檎さんの歌唱だけではなく、バンドや映像演出などの存在も大事になってくる(もちろん林檎さんの歌唱も圧巻なのだが)。

バンドとオーケストラの共演

アリーナレベルのコンサートでは、ギターやドラムといったバンド構成だけでなく、斉藤ネコさんというヴァイオリニストが指揮するオーケストラ隊も入る。バンドとオーケストラ、それぞれの音が絶妙に重なり合い、ライブならではの臨場感を楽しませてくれる。

また通常リリースしている音源通りではなく、アレンジを加えて演奏してくれるところも、新しい発見があって楽しい。レベルの高い演奏者が集まっているからこそできる芸当なのだろう。

映像

椎名林檎のライブに流れる映像も見応えがあり、それは児玉裕一氏の力によるところが大きい。世界各国の有名な賞を数々受賞するほど、才能のある映像ディレクターである。そして何を隠そう、林檎さんの旦那さんなのだ。

林檎さんの楽曲に合わせて流れる映像は、楽曲の世界観を表現するものでもあり、私たちを椎名林檎の世界に誘ってくれる役割を果たしてくれる。

ダンサーとか歌詞の表現とか

ELEVENPLAYやBAMBIさんなど、ダンサーが登場することだってあるし、歌詞も字幕として流れる。歌詞は縦書きで表示するのが椎名林檎のお決まりだ。

ダンサーにしろ歌詞の表現にしろ、全てが演出として完成されており、抜け目ない。

徹底した様式美

椎名林檎に感じる魅力の一つに、徹底した様式美がある。ただの音楽と思うことなかれ、椎名林檎の創作物には様式が存在するのである。そうした様式の美しさは、楽曲、詩、グッズ、ライブ演出など、そこかしこに表れており、多くのファンを魅了している。

この様式美こそが、椎名林檎が椎名林檎たる所以と言ってもよいかもしれない。言い方を変えるなら、「美学」という表現でもよいかもしれない。椎名林檎の音楽はセールスだけを意識した産業音楽ではなく、そうした美学を追究しているからこそ、ファンになる人とならない人がはっきりと分かれるのではないだろうか。

旧字体や旧仮名遣い

椎名林檎の歌詞と言えばだが、旧字体や旧仮名遣いがひんぱんに登場する。「移ろふ」とか「用ゐる」とか「如何して」など。こうした表現を使うことで、椎名林檎の表現したい世界観がより鮮明になってくるし、歌詞を目で見たときの感覚、視覚情報にまでこだわっていることがよく分かる。

歌詞カード

歌詞カードひとつとっても、その表現方法に驚かされる。上手に表現できないのがもどかしいが、一小節ごとにかたまりになって文字数がそろえられていたり、縦書きであってもあえて下揃えになっていたりなど、とにかく見た目にも美しい。

もはや歌詞カードというような陳腐な物言いをするのもはばかられるぐらいだ。

先にはライブでの歌詞表現についてちらっと書いたが、縦書きで表示されるだけでなく、フォント一つとってもそのこだわりが感じられる。「神は細部に宿る」という言葉もあるが、そうした部分にまでこだわりを貫いているからこそ、ライブではストーリー仕立ての上質な舞台劇を見ている感覚になるのだろう。

シンメトリー

これはよく言われていることだが、椎名林檎のアルバムは真ん中の曲を中心として、曲名の文字数がシンメトリーになっている。よく見るとお気づきになるだろう。さらにサードアルバムの「加爾基 精液 栗ノ花」ではアルバム名もシンメトリーになっているし、総時間も44:44とシンメトリーになっている。

だから何? と思われる方もいるかもしれないが、こうしたことに意味があるかないかではない。美しいと思えるのかどうかが大事なのである。

完成された世界観

とにかく椎名林檎が創作する楽曲・詩・ライブなどのコンテンツは、徹底的に作り込まれ完成された世界なのである。椎名林檎が好きという人は、その音楽が好きというのは前提で、その先の椎名林檎が生み出す世界観に魅力を感じている人が多いのではないだろうか。

林檎さんが生み出す楽曲は音楽であり、歌詞は文学であり、コンサートは演劇であり、世界観はアートの世界。もはや椎名林檎という存在自体が総合芸術なのだ。まさに素晴らしいコンテンツを生み出してくれる天才である。

まさに自作自演

Wikipediaで調べればすぐ分かることだが、「椎名林檎」は本名ではない。先には存在自体が総合芸術なんて言い方をしたが、本当の椎名さんは自分の美学や内に秘めているメッセージを「椎名林檎」という存在を通して表現しているのだと、勝手に思っている。だから「椎名林檎」は実像ではなく偶像であり、その存在自体が芸術作品という言い方も悪くないのでないだろうか。

まさに自作自演なのである。

(・・とは言っても別に偶像崇拝の対象したいとかでは決してない。ファンクラブ内の日々のコエ(林檎さん本人の日記)を読んでいると、とても愛らしい人柄が伝わってくるし、林檎さんは林檎さんでしかないのだけれどね。)

おわりに

本当に好き勝手書きすぎて、多くの椎名林檎ファンからはお叱りをくらうことも書いてしまったかもしれない・・

だが椎名林檎愛が強すぎてどうにかなってしまう前に、こうして気持ちを吐き出すことができてすっきりした。これからもファンを続けていこうと思う。一緒に椎名林檎について語れる友達できないかな・・

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